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長月(ながつき)9月の法話


煩悩にまなこさへられて 摂取の光明みざれども
大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり

(親鸞聖人著「高僧和讃」源信讃95)


今、私たちの生きている世界を仏教では「分別(ふんべつ)の世界」と言います。
何事も自分を中心にして、他のものを分けていく世界のことです。

自分にとって、都合がいいか悪いか。損か得か。役に立つか立たないか・・・・
私たちは誰もが無意識の内に考えています。
自分の為になる事は喜んで受け入れますが、そうでないものはなるべく避けたい、
遠ざけたいというのが私たちの本当の姿です。
私たちの望む究極の幸せとは、自分の欲望がすべて満たされる事でしょう。
しかし、私たちの心は決して満足する事はありません。
ひとつ満たしても、また次から次へと溢れ出てきます。
この心を人生の中心に置いている限り、私に本当の安らぎと平穏はやってきません。

この自己中心的な心を仏教では煩悩(ぼんのう)といいます。
その正体は、貪欲(トンヨクーむさぼり)、瞋恚(シンニ―いかり)、愚痴(おろかさ)の三毒です。
この煩悩を満たす為に、常にむさぼり、争い
この煩悩が満たされない時、怒り、悲しみ、絶望し
この煩悩によって真実を見抜く眼(まなこ)が遮られているのです。

仏様の世界は「無分別(むふんべつ)の世界」
自分と他人の区別のない世界です。
わたしの苦しみ、悲しみがそのまま自分のものとなる世界。
誰も知らないこの痛みを、仏様はずっと前からご存知でした。
だからこそ、救わずにはおれない・・・と、今私を抱きとめて下さっているのです。
その真実に気づかないのは私だけ・・・・・
阿弥陀如来はこの私を決して見捨てない。摂取不捨の仏様です。
「なもあみだぶつ」の声の仏となって私に届いた時、この「いのち」を最期まで共に生きて下さるのです。


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