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神無月(かんなづき)10月の法話

    十方微塵世界の    念仏の衆生をみそなはし 
    摂取してすてざれば  阿弥陀となづけたてまつる

                             (親鸞聖人著「浄土和讃」八二)


浄土真宗のご本尊は阿弥陀如来です。

その特徴は・・・・[像である。¬椶細い(半眼)耳が大きいぞし前傾している。ジ紊蹐ら光が八方に広がっている。
これらは、すべて私達に「阿弥陀如来のハタラキ」を目に見える形で表現したものです。

私達人間は言葉を操る存在ですが、反対に言葉で説明できないもの、目で見えないものを認識するのはほとんど困難です。
しかし、お釈迦様がお覚りなられた真如(しんにょ=真理)の領域は言葉では表現できない世界・・・・
浄土真宗の開祖、親鸞聖人は「いろもかたちもましまさず、言葉もたへたり・・・」
と表現されています。

つまり、言葉では表現できない領域を言葉で表現しているのが仏教なのです。
ですから、仏教ではよく方便(解りやすいように仮のもので言い換える、置き換える)が使われます。
皆様の家のご仏壇のご本尊様も同じです。そっと裏を見てください。「方便法身」と書いてありますよ。ですから、私達が合掌するのはそのご本尊そのものではなく、その後ろに広がっている真如(さとり)の世界なのです。
この領域の事を「万物を存在たらしめている宇宙の大きな命」と表現された先生がいらっしゃいました。

では、この「方便法身」が表現している「阿弥陀如来」とはどういう存在なのでしょう。

この「アミダ」という言葉は古代インドの言語、サンスクリットから来た言葉で
「アミターバ(無量の光)」と「アミターユス(無量の命)」の二つを表現しています。
つまり、限りない光と命の仏様・・・・・
それを中国でこの音に漢字があてはめられ、「阿弥陀仏」となりました。
最初の「南無」は「ナーム(モ)」の事で素直にお任せするという意味です。

親鸞聖人はこの「ナモ・アミダ・ブッダ」を「帰命無量寿如来」と日本語に訳されました。浄土真宗で広くおつとめされる「お正信偈」の最初の一行に出てきますね。

〜不滅の命であり、不思議の光である阿弥陀如来を、我がより所と仰ぎたてまつります〜(岡西法英 師訳)これは親鸞聖人の信仰告白です。

この阿弥陀如来の救いの目当ては十方衆生。
この迷いの世界で苦しんでいるものすべてを一人も漏らさず、その不滅の命と不思議な光に収める摂(おさ)め取ると誓われました。

阿弥陀様が立っていらっしゃるのは・・・
頼みもしないのに、この私を救い取ろうと如来の方から「声の仏=お念仏」になってやって来て下さるお姿。

目が半眼になっているのは・・・・
私の犯した罪ではなく、その悲しみを見て下さるお姿。

耳がお大きいのは・・・・・
誰にも言えない心の奥底の苦しみを一つも漏らさず聞き届けて下さるお姿。

前傾に傾いているのは・・・・
もう、すでにこの私を抱きしめて下さっているお姿。

そして、48本の光は・・・・
この「私」を仏とする為に建てられた願い。
「すべての願を成就できなければ如来にならない。」と誓われました。

その第18願「わが国(浄土=さとりの領域)に往まれたいと思い、我が名を呼ぶ者は(お念仏の行者)は一人も漏らさずに仏にする。」

この願が成就した事で、この「私」が仏となることができるのです。
ただ・・言葉の仏となられた「阿弥陀如来」を素直にこの身に頂けばいいのです。
そのお名前には阿弥陀如来のお徳のすべてが円満しているのですから。

私の口で称える「なもあみだぶつ」。
これが私の命に届いた「大きな命」からの喚び声だったと気づいた時、その領域と一つになる事ができるのです。

「阿弥陀」とは・・その不滅の命と不思議な光にすべての命を摂取して決して漏らさないというハタラキ・・・

このハタラキを他力(本願他力)というのです。そう・・すべては阿弥陀様からのいただきもの。ただ、素直に頂戴する。感謝あふるる毎日です。