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文月(ふみづき)7月の法話


 煩悩にまなこさへられて  
摂取の光明みざれども
 大悲ものうきことなくて  常に我が身を照らすなり 
                    
              
            
『親鸞聖人著;高僧和讃 源信
讃』


   


今年もお盆の季節が廻って参りました。

東京だけ、七月にお盆をお迎えするというのも不思議な気が
致しますね。
人間の都合に合わせて仏さまも帰省?の時期が
違うというのは、
まさに人間のエゴ(煩悩)の姿そのものだと
思います。
 

 

浄土真宗ではお盆の時期にわざわざ、お墓まで亡くなった方を

お迎えにいく習慣はありません。
なぜなら人間の功徳ではなく
阿弥陀さまの不思議な願力によって、
亡くなられた方は浄土に生まれ、
仏となられているからです。
「ナモアミダブツ」の声になって、
いつも私の側に居て
下さいます。でも、中には

 

「故人は生前、お念仏なんて称えていなかったと思うけれど、

本当に成仏できたのだろうか?」

 

と心配されている方がいらっしゃるかもしれませんね。

大丈夫、阿弥陀様の救いに条件はありません。 

つまり、お念仏を称えたから・・・・成仏できる。
という条件は
初めからないのです。なぜなら、往生の因は、
こちらが望もうが
否定しようが、阿弥陀如来から一方的に
頂くものだからです。

私がお念仏申した功徳で往生するのでありません。

まさしく、阿弥陀様の一人働きなのです

 

この、阿弥陀如来の「一人も漏らさず仏にする。」という
大慈悲の
ハタラキである「ナモアミダブツ」が素直に聴こえた
のが、他力の
信心を頂くという事です。

 

これを「聞即信」といいます。浄土真宗の信心の姿です。

つまり、阿弥陀如来の「かならず浄土へ還って来なさい。」

という「お喚び声」を素直に頂くのが信心なのです。

それは、阿弥陀如来の大慈悲が音で私に届いている姿です。

 

そして、音の無いのが「智慧の光」と表現される

「無碍光(どんな障害物でも突き抜ける光)」です。

 

この光には、私がどこへ逃げようとも、私の闇をすべて破る

ハタラキがあります。煩悩だらけの私の心の闇を破る
ことのできる
唯一つの光がこの「無碍光」なのです。

 

この光を表す、「無碍光如来」は阿弥陀如来の別名です。

親鸞聖人はよく「帰命尽十方無碍光如来」と十字名号を
好まれました。
「南無阿弥陀仏」の六字名号と同じく、
阿弥陀如来のお姿を表すお名前です。

その他に「南無不可思議光如来」という九字名号もあります。

 

すべて、無量の光(アミターバ)と無量の命(アミターユス)

を表しています。色も形もないそのアミダの世界を親鸞聖人は
音や光で
感じられていたのです。

その世界はあらゆる命を一つも漏らさず収め摂って捨てる事が
ない
大慈悲そのものの姿です。だから、仏像でも絵像でもなく
名号が一番相応しいと、
お勧めになられたのではないでしょうか。 

 

関西方面では今でも、お仏壇に阿弥陀如来のご絵像ではなく、

お名号をかけてある家が多くあります。

あらゆる世界に満ち満ちている、その摂取の光明は私が 

気づこうが気づくまいが、いつも我が身を照らしている。

皆様の大切な方もその光に納め摂られました。

なぜなら、今、「ナモアミダブツ」と声の仏となって、

あなたの口から出てきて下さっているからです。 

その不可思議をお盆を機縁に、もう一度味わってみては
いかがでしょうか?
  

                    釈 眞諦