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長月(ながつき)9月の法話

月の美しい季節になりました。
今月はもう、秋のお彼岸を控え季節が移り変わる頃ですね。
昼間の猛暑も夕方には涼しい風が虫の音を運んでくれています。

さて、皆さまの中には浄土真宗が家のご宗旨だという方も、
そうでない方もおいでかと思いますが、今月は改めて
「浄土真宗の教え」について触れてみたいと思います。

浄土真宗の聖典の一番最初のページに「浄土真宗の教章(私の歩む道)」
というものがあります。
「教章」というのは聞きなれない言葉ですが、辞書には載っていません。
前ご門主、勝如上人が「教えの目印」という意味で創作された言葉です。

その内容は混沌とした今日を生きる私に、何が真実で、何を判断の基準
にするのか。人生において最後には何を頼って、支えにして生きていくのか?
という事を明確にされたものです。

皆さまは何を人生の基準にして生きていますか?
ご自分の経験や知識でしょうか?
今、巷の本屋さんには沢山のハウツー本がありますが、
そういう成功者のアドバイスでしょうか?
でも、人生には「人間のものさし」では答えを出す事ができない、
様々な問題があります。お釈迦様が出家するきっかけとなった
「生死(しょうじ)」に係わる問題です。

つまり、生・老・病・死、そして愛する人と別れなければならない苦しみ。
欲しいものが得られない苦しみ、憎しみ合う人と出遇う苦しみ。
肉体があるがゆえの苦しみ・・・・・

さあ、あなたはご自分の力で乗り越えられそうですか?
「人間のものさし」は時代、価値観によってコロコロ変わります。
信仰を持つという事は、人間以外のもう一つの視点、つまり、
仏教徒においては、「仏さまのものさし」を持って生きるという事です。
「浄土真宗の教義」は・・・

阿弥陀如来の本願力によって信心をめぐまれ、念仏申す人生を歩み、
この世の縁が尽きるとき浄土に生まれて仏となり、迷いの世に還って人々を
教化する。

「仏さまのものさし」はあらゆる命を等しく尊い存在として測ります。
どんな私であっても、この私を収めとり、必ず仏にすると誓われました。

阿弥陀さまが私たちの「苦しみ」の姿をご覧になり、何とか救いたいと
「本願力」という大慈悲を起こされました。
その救う手立てとして「信心」を私達ひとりひとりに恵んで下さるのです。
その信心の内容は阿弥陀如来のお慈悲とお智慧です。
それは仏さまの方から、私に回向されるものです。
自分の努力でつかむ物ではありません。一方的に恵まれるのです。
この信心を頂くことによって、私が仏になる為の仏因を頂くのです。

私の口から「南無阿弥陀仏」とお念仏が出てきてくださった時、
すでにこの私が仏因を頂き、必ず仏になる身に定まったという証拠です。
この肉体がある限り、臨終の瞬間まで煩悩は消える事はありませんが、
お念仏を称えながら生きる人生の中で、私たちは仏様に育てられて
いくのだと思います。

親鸞聖人は「念仏の行者」にはすでに仏のハタラキが現われ、
「現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)」の位に定まり、弥勒に等しい
と言われています。そして、何より凄いのは?成仏したらそれでおしまい・・
ではないところです。
また、この迷いの世界に還ってきて、迷いの世界で苦しむ人々を救済して
いくのです。このダイナミックな「ハタラキ」が本願力という阿弥陀如来の
大慈悲のお姿です。
私のまわりにも、目には見えない沢山の還相(げんそう)の仏さまが
私を導いてくださっているのです。では、念仏者の「生活」とは?・・

親鸞聖人の教えにみちびかれて、阿弥陀如来のみ心を聞き、念仏を称えつつ
つねにわが身をふりかえり、慚愧(ざんぎ)と歓喜(かんぎ)のうちに、
現世祈祷などにたよることなく御恩報謝の生活をおくる。

こんな私が仏とならせて頂ける喜びと恥ずかしさ・・・・
この二つの感情の中で、お念仏と共に生きていく人生。
占い、現世祈祷に頼らない、という宣言は浄土真宗の誇りです。

ありのままの自分を受け入れていく、現実から決して逃げないという
宣言でもあります。それは、お念仏がいつも私と共にあるから。
阿弥陀さまが最期まで、この私の命を共に生きてくださるからです。
そして、そのご恩報謝の思いで、社会の人々の幸せの為に
何かしらの貢献をしていく・・・仏様の利他行の真似事でしょうか。

これが、浄土真宗の教えの本髄です。
初めて知った?人も多いでしょうか・・・

ご興味を持ってくださったら嬉しいです。それでは・・・また☆