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如月(きさらぎ)2月の法話

 

 南天竺に比丘あらん   龍樹菩薩となづくべし

 有無の邪見を破すべしと 世尊はかねてときたまふ

             (親鸞聖人著:高僧和讃 龍樹讃2)



  

皆様は、死んだ後に世界がまた有ると思いますか?

それとも、何もないと思いますか?

 

生きている時にいい事をした人は死んだら天国へいけるけれど、

悪い事をした人は地獄に堕ちる・・・だから、自分は何としても

極楽浄土に生まれたい・・・
こう思っている人を「有見」の人といいます。

 

反対に、人間死んだら何もない。生きているうちがすべてだから、
できるだけ
長生きして人生を謳歌したい。
死後はただ真っ暗な闇しかない・・・無である。
と思う人を「無見」の人というのです。

 

さあ、皆様はどっちのタイプですか?

本願寺の8代門主、蓮如上人は 

「極楽はたのしむと聞きて、まゐらんと願ひのぞむ人は仏に成らず、

弥陀をたのむ人は仏になる」(蓮如上人御一代記聞書)

 

と言われています。つまり、この娑婆世界では散々苦労したから、

死んだら浄土へ行って、楽したい・・と思っている人は仏になれない。

ただ、阿弥陀さまにお任せした人だけが、浄土に生まれて仏になれる・・

という意味でしょう。

「ドキッ!」とした方がいらっしゃるのではないでしょうか?

地獄へ行きたくない、浄土へ行きたいと願い、お寺参りを一生懸命に
することは、
一見、とてもいい事のように思いますが、
よくよく考えてみますと、
凡夫が思っているような浄土の楽しみとは
自分の欲望を叶える場所であり、
死後の世界への強い執着の現われ
なので邪見と言われるものです。

生きている限り煩悩の炎を燃やし続け、地獄行きの種ばかり

作っている私が、浄土へ行って楽しもうと思うのは、
少々、身勝手な考えかもしれません。

そこには自分の考えや力を信じている姿があります。
「有見」の人は
すべてを阿弥陀さまにお任せし切れていない・・
自力の心が残っているのです。

では、「無見」の人はどうでしょう。

死後には何もない・・ただ、真っ暗な闇に堕ちる恐ろしい所だから、
少しでも長く
こちらの世界に留まっていたい・・
とやはり執着しているのです。
いろいろな健康方法を実践したり、
人間ドックで健康管理を怠らない人の中にも
いらっしゃるかもしれません。
この世での人生の謳歌を目的にしている人といえるかも
しれません。
現代人に多いのではないでしょうか?

「極楽も地獄もあるものか、この世しかない・・」と執着する、
やはり邪見の人です。

「有見」も「無見」も生死を乗り越える事はできません。

なぜなら前者は「地獄に堕ちるかもしれない・・」
という恐怖心が常に付きまとい、

後者は「死んだら何もない。すべてが意味を失う・・」
という虚無・喪失の恐怖に
突き落とされるからです。

 

親鸞聖人が念仏のみ教えを、インドから中国、日本と継承して下さった

七人の高僧の一人として尊敬されている龍樹菩薩は、
この「有無の邪見」を破った事を第一の功徳として讃えられています。
お釈迦様が、後に南インドに生まれる事を予言された高僧です。

「有る」も「無い」もどちらも人間の執着心から出たもので、
真理には程遠いものです。
何事も自分の見識で二つに分けていこうとする人間の分別(ふんべつ)
を破った所に、
人間の執着を離れた真理が広がっていると発見されたのです。

龍樹菩薩は、後に大乗仏教の祖と言われるように、
その根幹をなす「空」の真理を説かれた方です。

 

つまり、お浄土はあるとか、無いとかではなく、
如来の本願を信じ、ただ、往生の問題は阿弥陀様に
お任せする・・・
それが有無の邪見を離れ浄土に往生する、念仏往生の姿です。

 

どうですか、少し心が楽になりましたか?ただ、お任せ・・・

そこに安心が恵まれます。他力念仏往生の因は、

信心を頂いた平生に決定するのです。

その時、浄土の方がもう、私を包んで下さるのです。
お念仏を称えながら、その喜びに包まれ生きる・・・
他力の信心を頂いた姿です。

・・・・・南無阿弥陀仏